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名刺診断の関根宏而
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2018年4月18日
ホームペイジ再開
ホームペイジを再開します。
2018年4月14日
立教高校二
立教高校昭和28年卒業同窓会。64回目の同期会を開催いたしました。出席者33名、全員83歳、まだ元気です。
2016年12月7日
名刺診断とは!
82年前[西暦1934年、昭和9年]と言うのは、日本が世界に対して戦争を仕掛けなけ
ればならばい状況になった時です。
その年の31日、今の北朝鮮、韓国を日本の関東軍が溥儀を皇帝として満州国を起こ
す、10月1日に陸軍省は[国防強化を提唱する、戦争準備のためのパンフレットを発行]
12月3日、政府、ワシントン海軍軍縮条約の単独廃棄通告
8月2日、ドイツ、ヒトラーが大統領と総統を兼任。
日本が中国に、米英に戦争を仕掛けなければならなくなった時期と言えます。、
さて、私之生れたのが1934年6月6日、昭和9年6月6日です。語呂合わせで「センソウシロ。クロー」となり
ます。
生れた時に、予知能力が植え付けられたのかの知れません。
その後、苦労を重ねた結果、名刺と言う媒体を通して、媒体の名刺とその所有者のそ
の後を見抜けることに気が通いた。
それが私之名刺診断です。
将来に明るい兆しがあるのか否か、いちど名刺を視させて下さい。
2016年9月13日
名刺の始まりその3
名簿(ミョウボ)。
名刺を語るについて、削除してはならないものに、「名簿みょうぶ」がある。
有職故実辞典の中の「名簿みょうぶ」という項がある、その一部を記載する。
「名簿・・名乗りの二字を書き付けた札を言う。「名札」の義にして、または「なづき」ともいう。古は貴人に見え又は師に 入門し,若しくは他人に服従するときなどに證としてこの札を送りしなり。これを送るることを称して「名簿を捧ぐ」とも、また,「二字を奉る」ともいう。名簿を捧ぐということは相論に負けたる時に限らず、すべて人の手下に従う時の印にすることなり。」
有職故実とは,古来の朝廷や武家の礼式,典故,官職、法令等を研究する学問。
相論に負けたる時、
「安土宗論」の例の記す。
1579年、完成した安土城に織田信長は住居を移した。
当時、一向宗に代わり日蓮宗が京都、岐阜などに勢力を伸ばしつつあった。
信徒の層は、京都、堺の町衆から公家、大名にまで信徒が広がっていた。
信長はいずれは日蓮宗を弾圧しなければならないと考えていた。
1579年5月初旬、浄土宗の長老霊誉玉念という長老が安土の町で説法をしていた。
そこに日蓮宗の建部紹智が議論を吹っ掛けてきた。
長老は「年若い方々に申し開きをしても、仏法の奥深いところは理解できないでしょう。これぞと思う日蓮宗のお坊様をお連れ下されば、ご返答しましょう」と答えた。
この説法の噂は、広がり京都、安土内外の僧侶が集まり、騒ぎが大きくなり、信長にも届くようになった。
そこで信長は宗門の存亡をかけて浄土宗と日蓮宗を戦わせることにした。
信長は日蓮宗が京都、堺の町衆から、公家、大名にまで信徒の広がりを見せているのでいつかは弾圧しようと考えていた。
1575年(天賞正7年)5月、信長の命により、安土浄厳院で浄土宗と日蓮宗との論争が行われ、信長は浄土宗に加担し、日蓮宗は敗れた。
日蓮宗は処罰された上に、浄土宗に対しては法難をしないという詫び証文を出した。
この詫び証文が「名簿を捧げる」に該当する。
この詫び証文、信長からの強制であり、現代でいえば、万一違約した場合、直ちに、強制執行も可能な公正証書ほどの権限があったのかもしれない。
服従,臣従する
名簿は服従,臣従するために使われた「名札」でもある。
その事例として、これは私自身の説である。
・・坂本竜馬は、名刺!を信用したことで警戒を解いた。・・
1867年(慶応3年)6月、坂本竜馬は後藤象二郎と長崎から上京する途上,船の中で竜馬は後藤に新しい国家体制について意見を述べた。
新しい国家の体制についての8カ条の要項をまとめた。有名な「船中八策」である。
ここではこの「船中八策」について触れるつもりはない。
その年の一一月一五日、竜馬は京都川原町通りの近江屋のニ階に下宿していた。
その夜、中岡慎太郎が訪ねてきた。
彼とどのような激論を交わしたかは知らないが、夜中まで話合っていたことは確かだ。
そこに十津川の郷士と称する三人の男が、竜馬に面会を求めてきた。
下男が十津川の郷士と称する名刺を持った三人の男の来たことを告げ、その名刺を持って上がってきた。
刺客がいつ来るかわからぬ危険な状況下だ。
階下で下男が、訪問客のあることを告げた時に、当然警戒する筈だ。
しかし、竜馬も慎太郎も全く警戒しなかった。
竜馬も慎太郎も所持していた刀もピストルを取って応戦することなく、切り付けられた。
竜馬も慎太郎も名刺を信じたから警戒の念を説いたのではないだろうか。
2016年9月6日
名刺の始まりその2
千社札
名刺に類似したものに、この対象は人ではなく、神様から功徳を得るためだが「千社札」がある。
千社札とは、神社仏閣に参拝をした記念として自分の名前や住所を書き込んだ札を貼ることである。千社札は紙製が多いが木札金属製のものも存在する。
この千社札は、安永の頃(西暦1772年~1778年)雲州松江候の儒者で鳩谷天愚孔平という騎人が、各所の神社仏閣に題名札を貼って歩いた。
題名を記した札を題名札と言うが、これを貼られている間は参?(宿泊参拝)と同じ功徳があると民間信仰では考えられていたため、日帰りの参拝者が参?(宿泊参拝)の代わりに自分の札を貼ったのが始まりであり、神社仏閣の許可を貰いご朱印を頂いたうえで千社札を貼るのが本来の姿である。
余談だが千社札は、神社仏閣に貼られている期間だけに功徳があるのだが。毎年7月9日、10日に参拝すれば四万六千日の功徳が得られるのが東京浅草の金龍山浅草寺だ。
千社札を貼ってある期間だけ功徳を得られるのではなく、7月9日または10日に、浅草寺に参拝すれば、その後、126年は功徳が得られると言うのだ。
室町時代以降から功徳日と呼ばれる縁日が月に一度設けられていた。この縁日に参拝すると百日分千日分に相当するご利益(ゴリヤク)が得られると信仰されてきた。
中でも7月10日の功徳は1000日分と最も多く「千日詣」と呼ばれていたが、享保年間頃より四万六千日と呼ばれるようになり、そのご利益は、四万六千日分(約126年分)に相当すると言われるようになった。
この数については、米1升分の米粒の数が46000粒に当り、1升と1生をかけたなどの諸説がある。
浅草生まれで、浅草寺幼稚園を卒園しているので、四万六千日、(ほおづき市ともいう)だけでなく、度々、参拝している、常に、感謝の気持ちで礼拝している。
この「千社札」も対象が神であるとしても、名刺で有るか否かはともかく「名札」
の一種であることは間違いない。
2016年9月1日
その1 名刺の始まり
名刺は何故[名]と「刺」と書くのか?
名刺は世界中で使われており、その歴史も各国独自に発展してきたが,最も古いのは中国,漢の時代地位のある人に会う時、取次の人に名刺を渡した。当時、紙が無いので竹を削って名前を入れて差し出した。
また、唐の時代に尋ねた先が不在の時、自分の名前を書いた木や竹の札を戸口に刺して自分が訪問したことを相手に知らせたと言う。
上記した漢の時代は、紀元前202年に前漢の成立し、紀元後189年後漢の皇帝霊帝が崩御する。
その後継者を巡って後継者争い、実権を手中にした者たちの暴政により各地の軍閥たちにより反乱が起こり、魏(創始者曹操、初代皇帝曹丕)蜀(蜀漢.初代皇帝劉備)呉(初代皇帝孫権)の中国国内に3人の皇帝が同時に誕生する三国時代に入る。
この頃の日本は邪馬台国の統治、女王卑弥呼の時代である。
また、唐の時代は西暦618~907年までで、日本では聖徳太子17条憲法の制定,飛鳥文化の発達した時代。法隆寺が創建されている。
当時、
刺を自分より権威のある方に面会をする時に取り次の人に渡した。
初対面に際して、警戒する姿勢は現在以上だっただろう。
そのためには、信頼するにたる人物で有るか否かを示すことが要求される。
その証として名刺が使われた。
そういう意味で、名刺には所有者が信頼できることを顕す内容が記されていた。
しかし、現在も同様だが、記された内容が必ず、真実であるとは言えない。
もしかすると、そのすべてが、人を騙すための道具であるかも知れない。
しかし、多くの人たちは名刺を交換し、その名刺の肩書等を読んだだけで、其の人に敬意を表し、あるいは、優越感を抱き、あるいは蔑み、あるいは唾棄する。
そして、敬意を抱ける相手であれば辞を低くして迎え入れる。
優越感を抱ける名刺で有れば、相手を見下す姿勢で会うことになる。
蔑み、唾棄する相手と思えば、会うことも拒絶する。
ただ、単なる名前を表記した紙であればこのような感情を抱くには至らない。
では、名刺とは、何なのか。